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弁護士コラム・論文・エッセイ

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弁護士 堤 淳一

2004年12月01日

エアランドバトル

エアランドバトルの起源

 湾岸戦争(1990-1991)を特色づける一つの要素としてアメリカ軍における戦術の変化が挙げられる。湾岸戦争において公式には採用されてはいなかったが"アメリカ軍全体"を蔽う重要な戦術の変化の潮流があった。この新しい戦術はエアランドバトルAirland Battleと呼ばれ、字義をみる限りでは航空機と陸上兵力の協同を基調とする空地直接協同(直協)作戦を意味するようにみえる。空地直協作戦はすでに第2次世界大戦においても用いられ、それが最も華々しく喧伝されたのはドイツ軍のポーランド進攻においてであった。「電撃戦」Blitz Kriegと汎称される戦術の一部を成すもので、目的地点をまず水平爆撃機もしくは急降下爆撃機(最も著名なものとしてスツーカJu87)が砲兵隊と協力して急襲し、それに同調して戦車と歩兵部隊が目標に突入することを基本とするこの戦術は、スツーカ急降下爆撃機の機体に取り付けられたサイレンの音と、500キロ爆弾によって、目標地点に在るポーランド軍に多大な恐怖を与えた。
 このように空地直協作戦は地上作戦において有効性を発揮することができることが実証され、エアランドバトルもある意味ではその系譜を引くものであろうけれども、第2次世界大戦の時代と1990年では半世紀を経ており、戦争をめぐる様相は大きく異なっている。
エアランドバトルは「電撃戦」が実証した航空兵力の役割、即ち航空兵力は地上部隊の機動性に決定的な影響を与えるという事実を電子兵器と組み合わせ、かつ、たんなる教範の域を超えた一つの思想を持つ戦術教義(ドクトリン)へと発展させたものである。

 1970年代、ソ連及びワルシャワ条約諸国の通常装備の陸軍兵力は巨大であり、戦車の数も西側諸国軍のそれを大きく上廻っていたから(注1)、NATOの作戦家たちは、もし戦争になった場合、少人数のNATO軍がソ連及びワルシャワ条約軍に打ち勝つためには戦域核兵器theatre nuclear weaponを使用するほかはない、と考えていた。
 即ち、ソ連軍ないしワルシャワ条約軍が西ドイツ国境を越えて進入した後、3日ないし10日間は西ドイツへの侵攻をやむをえないものとし、ある程度引きつけておいて核兵器を用いて敵を討つことを前提として戦略が組み立てられていたのである。こうしたシナリオが漏洩するや、これは西ドイツ国民を人質にとるものである、として国内外に大きな不安を惹き起こした。それにもかかわらずブリュッセルのNATO軍司令部においても、またクレムリンにおいても、短距離戦術核の応酬から大規模核兵器(大陸間弾道弾ICBMを含む)の使用に至る道すじ(エスカレーション・ラダー)が恐怖のシナリオとして真剣に検討されていた。

 1973年10月6日、エジプトとシリア連合軍がイスラエル軍を奇襲し、イスラエル戦争(10月6日~24日)が始まった。この戦争は対戦車誘導ミサイルに象徴される進歩した技術、正確な射撃統制装置、戦車砲の改善など、将来の戦争を示唆するいくつもの特徴を備えていた。
 とりわけ、陸上戦闘に関する戦術面におけるいくつかの現象が、戦場を視察したスターリー将軍(後にTRADOC司令官・大将)をはじめとするアメリカ軍の作戦家たちの興味を惹いた。即ち、戦いが熄むまでの間シリア軍は1300輌の戦車を失い、3500名の兵員が死亡し、370名が捕虜となった。対するイルラエル軍は100輌の損失、772名の戦死、65名の捕虜という結果であった。
スターリーの得た結論はこうであった。
・開戦時における戦力比は必ずしも結果を決定しない。
・シリア軍の後続部隊はよく機動しなかった。
・戦力において勝っていようと劣っていようと、攻撃側であろうと防禦側であろうとにかかわらず、戦の主導権を握った側が勝つ。イスラエル軍が示したように、戦略的に防禦に立つ少数の軍といえども主導権を握ることができる。

 既述の通りNATO軍の兵棋演習においても機動演習においても、従前の考え方は、もしソ連軍が西ドイツを攻撃した場合にはNATO軍は攻撃の歩度を遅らせ、然る後に反撃に出て敵を押し返す。もしこれに失敗した場合には核兵器を使用する、というものであった。
 しかしそれは誤りである。スターリーはこう述べる。

われわれは敵の戦域に深く進入して攻撃を遅延させ分裂させなければならない。敵の後続梯団はその進攻を阻止されなければならない。われわれは彼らを破壊しなければならないというものではない。もしできればそれが一番よい。しかしわれわれが本当にしなければならないことは後続梯団が戦闘に参加することを妨げ、彼らが、防禦側を圧倒できないようにすることである。

「積極防禦」と「縦深作戦」の思想

 ベトナム戦争の悪夢に対する反省から、アメリカ陸軍は1973年にデュパイ大将を長とするTRADOC(The Training and Doctrine Command)を設置した。世間には余りよく知られていないけれども、ヴァージニア州フォート・モンローに司令部を置くTRADOCはその後西側諸国における最大の軍教育機関に成長し、全土に数百のトレーニングセンターを設け、戦略理論の研究と訓練技術の教育に専念していた(注2)。
 1976年、イスラエル戦争の教訓と、戦争を視察した多くの軍人からの意見をもとにしてTRADOCは積極防禦Active Defense と呼ばれる新しい戦術教義を発表した。
 積極防禦は、戦域battle ground を深耕させること進攻してくるソ連軍の第1梯団を攻撃するのみならず、長射程のハイテク兵器を用いて第一波に後続する次の梯団を狙い討とうとする戦術であった。しかし問題は第2梯団だけではない。第3梯団は、第4梯団は、そして更に後続する梯団についてはどうするのか。ソ連軍の兵力はシリア軍の兵力の比ではないのだ。積極防禦戦術は評価しうるものではあるが、それのみでは戦争を再定義することについて十分ではなかった。

 問題は攻撃と防禦に関して新しい定義を与えることであった。軍の増強の面での変化を考えることを以っては不十分であり、アメリカ陸軍の教義を根本から考え直すことが必要であった。
しかし、軍人はどこの官僚組織についても言えることであるが、とりわけ一定の変化が、組織の一部の地位の低下をもたらしたり、新しい技術の修得が強いられたり、また、三軍間の対立を招いたりすることになるような場合には、これに対し強い抵抗を覚える傾向にあった。教義の改革の核心は大規模兵力を備えさえすればそれでよいといった古い観念のみなおしにあった。それゆえ問題は戦争の概念のみならず、課業、将兵の人事課程、技術およびそれらに基づく産業界との関係など多岐にわたった。それはまた陸軍の兵力即ちその規模、編制、それに含まれる部隊の数のすべての再検討と変化の可能性を探ることを意味した。
 TRADOCに知性派の将軍や将校が集められ、カンザス州フォート・レヴェンワースにある米陸軍指揮一般幕僚大学(注3)と連繋して研究が進められた。

 改革派の将軍たちは武器、軍組織(編制)、兵站、電子戦闘、核兵器の脅威、陣地戦闘に対する機動の重要性などについて新しい概念を樹立するための討論を屡々行ない、国内および諸外国(英、独を含む)の視察を通じて、次第に新しい教義を形成していった。
「縦深作戦」deep operation ないし「拡大作戦」extended operation 即ち戦闘は第一線において行われれるだけでなく、後方(追随してくる梯団が発見される場所)の深い地点においても同様に行われなければならないという考え方が強調された。
 そのためには敵の後続部隊が先行部隊を支援し得ないようにするための兵員、補給および情報が必要とされること、敵の司令部、兵站線、通信環線、防空兵器などを攻撃するため、空軍による縦深攻撃が必要とされることなどが考えられた。
そのためには空軍と地上兵力の緊密な統合が必要とされた。ところがこうした議論を疑いもってみる要素が空軍の中にあった。いまでも或る空軍将校はそうなのだが、当時敵の前進の阻止に従事するのは空軍の本来的任務だという考え方が根強く、「改革派」の議論は陸軍が空軍の縄張りを冒すものだというのであった。しかし教義の改訂は縄張りの問題ではないとする大勢に従って、空軍司令部も次第にTRADOCの考え方に同調し、空軍と地上兵力の機動とを同調させるため砕心しようと試みるようになった。

 将兵の資質も重要であった。将来どのような種類の将兵が必要とされるのであろうか。そしてどのような技術が必要とされるのであろうか。TRADOCは教義の形成と共に、このような問題にも答えなければならなかった。
 またTRADOCはM-1エイブラムズ戦車、アパッチヘリ、ブラドレー兵員輸送車、そしてペトリオットミサイル(当時未制式)などの兵器の概念規定を手助けした。J-STAARS(空中に基地を置くレーダーシステム)は湾岸戦争に効用を発揮したが、これもTRADOCが1978-1979年に企画したものである。MLRS(多弾発射ロケットシステム)、ATACMSミサイルシステムなども新しい戦闘を実施するために必要とされるものであった。

「エアランドバトル」の誕生

 こうした研究の末、1981年3月25日、将来戦に焦点をあてた新しい教義を示す公式文書である「エアランドバトルと戦闘集団86TRADOCパンフレット525-5」が完成した。タイトルはモレリ少将が命名した。この文書は当初ゼロックスでコピーされ、あたかも存在を秘匿する態のものであったが、軍の内部から次第に外部(議会やホワイトハウス、副大統領府を含む)へと流布されていった。デュパイ大将の後を襲ってTRADOCの司令官に就任したスターリー大将とモレリ少将のコンビによって作成されたこの教義は1982年8月20日、野戦教範Field Manual(FM)100-5(作戦)としてまとめられ、NATO軍の在欧陸軍の戦術教義に変化を与えた。この教義は空軍と地上軍の緊密な協同、第1波、第2波、及びこれに後続する梯団が戦場に到達することを妨げる縦深攻撃deep strike、更に重要なことは、核兵器を担任する敵目標を攻撃する新しいテクノロジーの重要性を強調していた。
 最初のエアランドバトルの教義が作成された後、これは何度も版を改め、修正を受け、後の版になると敵の後続梯団が前もって定められた位置に着くことを早い段階で妨害する自軍の行動が強調された。1987年の改訂版エアランドバトル作戦教義が作成されて4年後の1991年8月1日、サダムフセインがクウェートに進攻して1年後にアメリカの公式教義として採用されるに至った。

 Operations FM100-5(1986年)は次のように言う。
エアランドバトルとは、作戦ないし戦術レベルにおいて、戦闘力を創出し、適用する一つのアプローチとして観察され、戦闘におけるイニシアティブを保持し戦闘の任務を完遂するため攻撃にイニシアティブ(主導性)を発揮せしめるためのものである。すべての作戦の目的は当方の意志を敵に向けて強制すること、即ち当方の目的を達成することである。そのためには予期せざる方向から強力な一撃を加え敵のバランスを失わせ、敵の回復を妨げるためのフォローアップを行い、かくして上級指揮官の目標を達成するために果敢に作戦を継続しなければならない。(14頁)
 このような考え方に立って作戦計画は、柔軟性(敵の脆弱性に乗じて有効な期間内に戦闘の機会を創出すること)、集中性(敵の重心の中心部分へ当方の戦闘力を集中する)、同調した統合作戦、全作戦の目的を達成するため戦術的成果を攻撃的に利用することなどが強調されなければならないとした。

 そして戦場における勝利は次の4つのサブ教義に依存するものとしている。(15頁以下)
(1)主導性(initiative)
主導性とは戦闘の与件を自軍の行動によって設定し、変更することを意味する。主導性をとるということは我の行動の自由を保持しつつ、我が作戦目的とテンポに合致するように敵兵力を強制することである。これを個々の将兵や指揮官について言えば、上級司令部の意図の枠組みの範囲内で、独立して行動する意思と能力を必要とする。主導性ということは危険を引き受けるということと、そのような状況を甘受する大胆性を要求するのである。
 戦闘のカオスの中で最下級のレベルに決定権を分権することが必須である。けだし、過度に集中された権限は行動を遅延させ、不活性へと導く危険があるからである。しかし、分権主義による戦闘方式は実行にあたって正確性に欠ける危険がある。それゆえ指揮官はこの2つの危険のバランスを弁えなければならない。
(2) 敏捷性(agility)
 敏捷性友軍が敵軍より早く行動することはイニシアティブを把握することを前提とする。迅速に行動するということは、一つの行動に対する敵軍の反応を適時に観察し、すでにとられた敵の行動、敵の計画を分裂させ遅延に導き、調和のとれないものにし、敵の反応を分断させるなどの行動を間断なく行うことによってなされなければならない。
そのためには敏捷でなければならない。組織摩擦偶然な過誤の積み重ね、予期せざる困難、戦闘時の混乱などは邪魔になる。これらを克服するためには指揮官は常に「戦場を読み」、迅速に決心し、躊躇なく行動しなければならない。
 敏捷性は心理的な資質といった精神面に大きく関わるものである。精神的な柔軟性は兵士の軍事教育と、配属された部隊においてこれを保持しつづける努力とに依存している。
(3) 縦深性(depth)
 縦深性とは作戦の地域・時間・資源における作戦の拡がりである。縦深を確保することを通じて指揮官は機動を効果的にするための地域的拡がりを得ることができる。また作戦立案と配備および実施のための時間を得ることができる。
 もし縦深が確保できれば指揮官は火力の集中、自軍の側翼の防禦、後方および敵の支援梯団への攻撃などを通じて敵の行動の自由度を減少させ、柔軟性と忍耐を減衰させ、敵の行動に確信と調和を失わせることができる。
(4) 同調性(synchronization)
 同調性とは所定の時間に適切な地域と決定的な地点に関係する戦闘力を最大にならしめる目的でなされる戦場における配備をいう。同調性の要請は決定された地点に兵力と火力を集中させることを含むものである。
 ある作戦において、同調されるべき或る行動の一部に対する制肘例えば機動の禁止もしくは予備兵力の対空攻撃への再編成が戦の決定的瞬間が生ずる前に必要とされないとも限らないし、これらの行動が互いに離れている地域で行われているかもしれない。いくつかの行動が時と地域を別にしていたとしても、同調による結果が決定的な時間と地域において必要と感じられたならば、これらの行動は当然に必要な目的のために同調されなければならない。
 何よりも効果的な同調は兵力の無駄遣いを最小にすることに資する。そのためには時・空間の関係、相互に行動する友軍と敵軍の能力に関する完全な理解が求められる。就中、全兵力を貫徹する、二義を許さざる目的の統一が必要とされる。

エアランドバトルの「攻撃作戦」思想

 Operations FM100-5(1986)は"陸軍とその戦闘""攻撃作戦""防禦作戦""統合、連合及び偶発作戦"の4部から成り、エアランドバトルの教義を敷衍して詳述しているが、エアランドバトルの最も特徴的な「攻撃作戦」の要点をみてみることにする。(106頁以下)

 攻撃の枠組
 作戦に関する簡明かつ完全なコンセプトがすべての戦術的な攻撃行動の基礎をなす。コンセプトは構成の諸段階において迅速な変化が可能でなければならない。
軍団もしくは師団は攻撃戦闘間において以下の5つの補足的な要素を用いるものとする。
・必要に応じて行われる支援攻撃を伴う主攻撃
・攻撃を支援する予備作戦
・主攻撃及び支援攻撃の前方、側翼及び後方に対する偵察及び防禦
・攻撃地域の枢要点における間断なき縦深作戦
・攻撃運動を保持するために必要な後方作戦

 指揮官は攻撃を行うにあたってこれらの補足的な作戦の諸要素を組織化して攻撃を実施しなければならない。

近接作戦

 近接作戦においては偵察及び防禦部隊擁護部隊、及び前方、側翼、もしくは後方の防護が敵軍を明示し、敵の防衛の間隙を発見し、敵の奇襲を防ぎ、状況を発展させ、敵の動きに反攻する時と場所を指揮官に知らせる。主攻撃及び支援攻撃部隊は敵の防衛線をめぐって、もしくは突破し、敵の防衛の破摧を可能にさせる目的地点を占領する。

図1〈図1〉は攻撃のモデルを示すものであり、ここにおいては主力部隊が自軍左翼の支援攻撃の擁護を受けつつ右翼から大きく迂回し、敵の側翼から後方に廻り込んで敵を包囲する主攻撃を行う。ここに示された戦闘方式は包囲作戦envelop-
mentと呼ばれ、戦闘の基本的な形式である(「包囲作戦」については本ホームページに掲載中の拙稿「アメリカ軍事ドクトリンの変化アフガン戦争から第2次湾岸戦争へ」を参照)。
その間1箇梯団を右翼に派して側翼を防御する。けだし、我が考えることは敵も考えるかもしれない。敵もその左翼から迂回し我を包囲しようとして我の側翼を衝こうとするかもしれないからである。

縦深作戦

 縦深作戦は敵陣深く進入し、自軍に対する反抗を阻止し、敵の防禦を孤立させ、火砲を無力化させ、敵の予備兵力を撹乱し、支援を分裂させ、かつ敵が退却する際にその防禦を支離滅裂にさせるものである。
縦深作戦には次のような手段が用いられる。
・戦術的な航空支援
・長距離火砲
・攻撃ヘリコプターの部隊
・電子戦のシステム
・特殊部隊
・レンジャー部隊
・空襲部隊
・空挺部隊
・機甲もしくは機械化部隊
〈図1〉においては上記の各手段を用いて、近接戦闘地域の後方にある敵の第2梯団(例えば敵司令部ないし指揮中枢)を攻撃し、これが前線へ到達することを不可能にしもしくは遅延させる。縦深作戦は各作戦の機動と緊密に同調してなされなければならない。

後方作戦

 後方作戦は直接行動に参加し、もしくは待機の姿勢にある自軍の兵力の自由を確保する。通信線、予備兵力、及びこれらの要素をなす兵員、物資の移動は敵側から行われる縦深作戦の標的となりやすいので十分警戒する必要がある。後方作戦の成否は警戒行動、交通管制、交通線(後方連絡線)の確保、維持にかかっている。

エアランドバトルの持つ意味

 トフラー(「第三の波」The Third Wave(1980)の著者)によれば、トフラーとその僚友たちは1982年にモレリ准将(当時)の訪問を受け、軍内部における新しい教義のコンセプト作りについて相談を受け、モレリ准将とトフラーら民間の学者は「第三の波」即ち第一の波は10,000年前にはじまった農業革命から始まる時代、第二の波は300年前に始まった産業革命以来の波であり、現在の時代は第三の波の中にあり、軍もその例外ではないとすることなどをめぐって討論した。モレリ准将は経済と社会が変質transformしている中において、戦争も同様の変質を遂げなければならいという点で、トフラーらの思想に共鳴したのである。モレリとトフラーらはビデオゲームの話から会社における分権経営、テクノロジーの話から時間の哲学にいたるまで様々な話題について議論し、モレリはこうしたことすべてが戦争の概念の見直しに含まれて然るべきであると語ったという。後にまとめられたエアランドバトルの概念の中に含まれる指揮の分権化などの記述を読むと、トフラーら民間にある学者の会社経営に関する知見が活かされていることを感得することができる。

 その後の経過は上に見た通りである。
そして第1次湾岸戦争(1990-1991)は基本的にはエアランドバトル教義を用いて戦われた。その後十余年、アメリカ陸軍はその経験を活用してこの思想を洗練されたものに改訂しつつある。
 アメリカ陸軍は1993年にFM100-5を制定し、1995年に起草されたFM40の草案をもとにして2001年6月には1993年版のFM100-5を改め、「トランスフォーメーション」のために新たにFM3-0を発表するなど教義の改訂は日進月歩といっても過言ではない。
 2003年3月に始まった第2次湾岸戦争はラムズフェルド国防長官が主導する新たな「トランスフォーメーション」の影響下において戦われ、戦争の新しい姿を見せつけた。「先制攻撃」pre-emptive、「衝撃と脅威」shock and awe の標語が喧伝されたが、イラクの指揮情報中枢を打撃し、しかる後にバグダットを包囲したこの戦いは、ラムズフェルドの軍隊内機構改革に負うところが多いとしても、戦術の起源はエアランドバトルのドクトリンにあるといっても大きな誤りではあるまい。

 戦争のハードな側面(兵器体系など)にとどまることなく、エアランドバトルは戦争現象を分析したうえ、指揮官や将兵の資質といったソフトの部分についても改革を要求し、かくしてエアランドバトルはたんなる小手先の作戦マニュアルにとどまらない深味を持つに至り、アメリカ陸軍の歴史に一石を投じた。
 こうした改革の背後には軍の教育機関(TRADOCや指揮一般幕僚学校など)の力が与っていることを見落とすことはできないが、同時に戦術教義の改革は一朝一夕になしうるものではない。科学技術のみならず、大統領府、国防総省、議会を含む戦争をめぐる諸組織、軍事に関連する諸産業組織(軍需産業にとどまらない)、軍人の知的水準、組織管理理論、軍事予算など、国家を形成するトータルな力(諸要素の複合と言ってもよい)によって達成されるものであることが銘記されるべきである。


  (注1)
1982~1983年当時におけるNATO北大西洋条約機構軍とWPOワルシャワ機構軍との兵力バランスはおよそ下表の通りであった。

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*WPOの師団には、即応態勢の高いものを含み、(  )内の数字はソ連軍を示し、内数である。
*このほか、WPOの増援可能兵力は96 2/3個師団であり、NATOのそれは、61個師団である。(昭和58年度版 防衛白書)

(注2)
TRADOCについてトム・クランシー&フレッド・フランクスJr.(白幡憲之訳)「熱砂の進軍」
(下)(原書房1999.P430)は次のように説明している。
TRADOCは陸軍全体の訓練基準を定め、陸軍の膨大な訓練及び指揮官育成学校システムフランクス(引用注:TRADOC司令官を経て、第2次湾岸戦争におけるCENTCOM司令官・陸軍大将)はこれを「地上戦大学」と呼ぶを運営する。年間35万人を超える学生数、プエルトリコ一国分とほぼ同じ敷地面積、11,000をこえる施設数、全米の1,500近い高校、単科大学、総合大学に置かれている予備役将校訓練部と予備役下級将校訓練部。教育委員会によって、修士号の授与も認められている。まさに総合大学なのだ。
TRADOCはこれらの任務を遂行するために、20億ドルをこえる年間予算と、文民・軍人合わせて6万人近い人員をもち、18の主要軍事施設を運営する(陸軍のほかの部署と同様、過去8年間で30パーセント以上が縮小された)。各主要施設及び関連の陸軍学校、もしくは個々の訓練基地(フォート・ノックス、フォート・ベニング、フォート・シル、フォート・ジャクスン、フォート・レナード・ウッドなどがある)は、少将が指揮をとる。TRADOCには、司令官を務める大将のほかに、中将の副司令官が2人いる。ひとりはヴァージニア州フォート・モンローの司令部にいるが、もうひとりはカンザス州フォート・レヴンワースにいて、アメリカ陸軍の指揮・参謀大学校の司令官を兼務し、TRADOCのすべての訓練を監督する。

(注3)
The United States Army Command and General Staff College と言い、大規模な作戦行動に携わる参謀と司令官になる将校を養成する大学。また、戦術や作戦・教義の形成にもあたることを目的としていた。"Levenworth Men"でない者が陸軍のトップになれないわけではないが、この大学を卒業しないでトップに昇りつめた者は50年間のうち僅か数人にとどまると言われている(Col.Travor N. Dupuy. et al. "How to Defeat Saddam Hussein" (Warner Books)P.81)。湾岸戦争においてもこの在学将校(これらの将校はジェダイ・ナイトと呼ばれた)が現地に派遣され作戦指導にあたった。

〈参考文献〉

  • Alvin and Heidi Toffler"War and Anti-WarSurvival at The Dawn of The 21st Century"(WARNER BOOKS,1993)
  • U.S. Department of the Army"Operations Field Manual 100-5"(1986)
  • F.N.シューベルト/T.L.クラウス編(瀬川義人訳)「湾岸戦争砂漠の嵐作戦」(東洋書林,1998)

(2004.12.1)

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